福壽海無量
 手元に偶々、「福壽講」なる資料がありましたので、以下に活字化してみます。発行年等は不明ですが、恐らく昭和初期辺りだと思われます。
 
 ただ、「福寿海無量(フクジュカイムリョウ) 」と唱ふべし。

人、もし諸々の幸福を得んとせば『福寿海無量』と唱ふべし。

 ○人、もし諸々の病を治せんとせば 『福寿海無量』と唱ふべし
 ○人、もし延命長壽を得んとせば  『福寿海無量』と唱ふべし
 ○人、もし諸々の災厄を免れんとせば『福寿海無量』と唱ふべし
 ○人、もし諸々の幸運を得んとせば 『福寿海無量』と唱ふべし
 ○人、もし諸々の悩み起きるときは  『福寿海無量』と唱ふべし
 ○人、もし諸々の願いを遂げんとせば『福寿海無量』と唱ふべし
 ○人、もし神前前を拝するときは  『福寿海無量』と唱ふべし
 ○人、もし諸々の悪念を起こさば  『福寿海無量』と唱ふべし
 ○人、もし諸々の善悪の念を発せば 『福寿海無量』と唱ふべし

心、誠に一信を凝して「福壽海無量」を唱ふるとき、福徳福壽慕い集まり、悪運は忽ち消滅して善運に移り、逆境は忽ち変じて順境に転じ、災厄は改りて福祥とんり、幸福は益々大にして子孫に伝わり、福壽の恵みを受くること大海の如く無量なるべし。

人生は幸福でなければならない。「福壽講」は幸福の宗教である。人々を幸福の門出へ導く教えである。
人生の半分は運であると言われているが、事実は八分九分通りまでが運であると言っても過言では無い。運が悪くては、たった一度きりの人生も台無しである。人は好運に恵まれなければならない。進んで好運を捉え、自らの運命は自らの心で開拓しなければならない。
「命あっての物種」と言われるている如く、人生は身体一つが資本である。誰しも身体一つを張った危うい世渡りが人生の本当の姿である。一たび呼吸途絶え生命去りし身体は、もう其の瞬間から愛する人々に別れて一塊の土に帰らなければならない。生きるが故の人生であり、健康一つを張った生涯である。誠に健康こそは千萬の富にも勝る人生の至宝である。生きんが為の身体である以上、病あらば速やかに治さねばならない。輝く眞の健康を保って我が人生の大黒柱を太く強く支えなければならない。
また幸いに健康に恵まれたとしても、人には衣・食・住を中心とする生活がある。殊に今日の生活は経済生活であるから財運に恵まれなければならない。「四百四病の病より貧ほど苦しきものは無し」などと言われるのは、生活の根本を培う財運に恵まれぬ悲惨な人生の姿を言ったものである。
人々は健康な上に、衣・食・住を中心とする財運に恵まれ「人間らしい生活」を営み、たった一度きりの人生を幸福に有意義に送らなければならない。即ち健康と財の二つを得て、はじめて生甲斐ある本当の人生を形造る事が出来るのである。
命長く、心安らかに、無病息災の健康を招く神秘な本能の力---これを壽徳と言う。
衣・食・住に恵まれ、財福を招く霊的な神秘力---これを福徳と言う。
人は二本の足で立つが如く、人の生涯は壽徳と福徳のとの二つの徳を受けて立つ。
「福壽海無量」の霊唱は、此の「壽・福」の二徳を最大最高に発揮させる功徳を持つ。
地上に落ちた一粒の種子は、大地の恵みを受けて芽を出し根を張り幹を伸ばし枝を出し葉を茂らせ花を咲かせ実を結ぶ。一粒の種子の内には自然にそうした神秘的な力、霊的な力を与えられている。人も亦、一粒の種子の如く、地上に生を享けて出現した以上、自らにそうした神秘な力を与えられている。壽徳の根を太く雄々しく張って輝く健康を支え、福徳の花を爛漫と咲かせて自他の生活を幸い巨大なる財と家業の実を結ばなければならない。
体、健やかに心楽しく、家富み子孫栄ゆる幸運なる人生の道を示すもの、これ実に我が幸福の宗教「福壽講」である。

 ○幸福こそ人生の本当の姿である。
凡そ人と生まれたる限り、誰しも幸福を願わぬ者はありません。幸福を求めることは人間の本能であり、それは自らを明るくするだけでなく、家を明るくし、周囲を明るくし、人の世を明るく美しくするものです。
自分も人も幸福で、みんな揃って幸福な生涯を送る事が人間生活の理想であり、人間は永遠に幸福を求めて地上生活を続けて行くのです。さればその「幸福」とは一体何でありましょうか。それは各々人々によって異なり、また時と場合によって変わりましょうが、凡そ人間の幸福として最も基本的なものは「壽」と「福」です。即ち健康で長命で、衣食住に恵まれ生活に安穏を得て、程々の財運、順調なる事業運に恵まれ、家業愈々栄えてよき後継者を得、家名と子孫を残し得たら、先ず幸福なる人生と見ねばなりません。

 ○壽徳とは
「壽」は一口に申しますと健康に恵まれ、命長く無病息災に天寿を全うするすることで、生きとし生けるものの誰しも等しく希うところであります。
我々は日常健やかな時は格別「健康」と言うものの有難さを考えて居りませんが、一旦病気に侵されますと「健康」と言うものがどれだけ有難いものかをつくづく考えさせられます。天が生命を我々に与えてこの地上に生きることを許され以上、我々はこの天授の生命を我が生涯の最後の一瞬まで支障なく、平かに安らかに健やかに生き通し、生き抜くべき徳を与えられているので、これを「壽徳」と申します。「徳」はハタラキと言う意味で、即ち壽(イノチ)のハタラキです。
例えば八十年の天壽を以て生まれた人も、壽徳を喪いますと、惜しくも五十年にして没し、或いは三十年にして病死するもあり、また両親の不注意によって幼少にて天壽を損ねさせる場合もあります。また不慮の事故災難急病に見舞われて一瞬の間に生命を喪い、最愛の家族をして茫然自失せしめる悲惨事を呈するのも此の「壽徳」を喪うからで、「壽徳」が完全に発動されている限りは健康を蝕ばれることなく、急病や不慮の災難に見舞われて生命を喪うというような事も無いのであります。何と申しても人の生涯は健康で、生命永く長生しなければ、人としての任務、人生の目的を達成する事は出来ません。不慮の災難や禍無く、自らの健康を強く雄々しく守り通さねばなりません。

又、例え衣食住に不足なくかなりの長命を保ち得たとしても厄介をかけ、不愉快で不明朗な日夜を送るとせば凡そ人生の悲劇であります。また幸いに自分自身がどうにか健康を保ち得ているとしても、愛する我が子・我が夫・我が妻、父母兄弟親類縁者知己友人等近い者が病苦に呻吟している姿を眺めては、とても平気で正視出来る訳のものではありません。自他共に健康でありたい希うことは、人間の心の奥に潜んでいる自然的なしかも最も根強い要求で、そう思うことそれ自身が、自然的にそう思わせる本体---即ち「壽徳」と言う神秘な働きが体内に潜んで居り、人を健康ならしめる本能の力が堰を切って水の押し流るる如く発動したがっているからであります。内外遠近種々の原因や霊的因縁によって堰き止められている「壽徳」の発動を促し、弾力を失った心に活を入れなければ、遂に取り返しのつかない状態に陥ります。この「壽徳」を其の根本に遡って最高最大限に発動させる霊唱が即ちこの「福壽海無量」の大神咒であります。

また如何に健康であっても短命であってはなりません。人生の事業半ばにして空しく夭死し、妻子眷族を路頭に迷わせる一家の悲劇は、現に私たちがこの眼・この耳で日となく夜となく見聞きするところであります。
人は皆其れ相応の長命天壽を全うし、家業には良き後継者を得、子孫眷族みなそれぞれその処を得て家門の礎と繁栄を見極めておくべきであります。人みな健康で長命を得ること---これを「壽徳」と申します。
この偉大なる「壽徳」の全力を円満最大に発動させる方法が即ち「福壽海無量」の霊唱であります。

 ○福徳とは
「福徳」とは人が生活をして行く上に必要な環境を作り出す働きで、一口に申しますれば、衣食住や財福などの恵みを受ける徳です。古い諺に「お天道様と米の飯はついて廻る」と言う言葉がありますが、人間一人の生命を支える為に就いて廻る衣食住や分相応の財は「福徳」の現れで、天授の生命のあるところには必ず其の生命を支える為に必要な福徳が出現して参ります。仮に壽徳を「縦」とすれば、福徳は「横」で、人生はこのタテヨコ十字の組み合わせによって成り立つので、つまり私たちはいつでも此の十字の中心点に立って居るのであります。考えてみますと、私たちは今生命があるからこそ現に此の世に只今生存して居ります。即ち「壽徳」の縦の線の上に居ります。そして其の生命体たる身体を守る為に衣服と家屋があり、生命を維持する為に食事を摂ります。またその衣食住を保つために必要な財を支出します。これは生命を支える為に必要な「福徳」が発動しているので、つまり「福徳」の横の線の上に居るわけで、壽徳の縦と福徳の横との十字の中心点に生活しているので、この縦でも横でも其の一つが欠けると十字は成り立たなくなるので、即ち人生の十字は安定を失い遂には崩れて仕舞います。このように「福徳」は壽徳の形に添う影の如きものですが、また「福徳」ありて壽徳の形に添う影の如きものですが、また「福徳」ありて壽徳も其の生命を全うすることが出来るので、「福徳」は壽徳を守るために発動していると申してよいのであります。さればこの「福徳」の発動の消長(オオイスクナイ)---即ち「福分」の厚い薄いによってその人の生涯は非常な幸不幸の隔たりを生じて参ります。

如何に健康で長命を得るとも、衣食住財の生活苦に陥って一日の安楽もなく、する事為す事鶍(イスカ)の嘴の如くに食い違い、此の世の苦労を一身に集めたような不運な悪生涯を送ることは人間本来の幸福道に反するもので、決してまともな人間の生活ぶりでないのであります。これらの福運、福分に薄いのは要するに「福徳」の発動を蔽っているからで、我が生命を活かせてゆく根元的な力のハタラキが偏頗となっているからであります。

この地上の一個の人間として生を享け、五尺の体軀を与えられたことは、とりも直さず「生きてゆく徳」を与えられたことで、何者も此の「生きる徳」を奪う事は出来ません。即ち「生きる徳」とは健康で長命で、衣食住、財運等の福分の恵みを天授の最大限まで受けて、与えられた生涯を幸福に全うすることで、天地のうちに人一人が生きてゆくと言うことは、天地の一角に一つの「生きる徳(ハタラキ)」を発現して行く相(スガタ)に他ならぬので、生々化育を実相する宇宙の真理として極めて当然の姿なのであります。

 ○どうすれば福徳・壽徳を得られるか
それでは、どうすれば福徳壽徳を最高最大の限度まで発現して天授の幸福をギリギリまで捉えることが出来るか。勿論、努力・勤勉といった人工的な常識的方面に就いては当然のことで、とりわけに茲に言及すべき限りではありませんが、例えば治病、健康と言った問題に就いても、肉体の奥に潜む一つの偉大な力、治病健康の本能力の根源となす神秘な霊的なハタラキに就いて世人は余りにも無関心であり、無知識であります。人の生命体を扱う医学では治病の根源力となるこの神秘な本然の力を自然癒能力と称して居りますが、それは此の「壽徳」の極く一部のハタラキを側面的に見ているに過ぎないので、古来釈迦・キリスト・弘法大師などの行った治病の奇蹟は此の「壽徳」の神秘な力を最大限に発揮されたもので、それが時間的に極めて速やかに効果を収めたところに奇蹟と呼ばれる治病の霊験が現れているのであります。

又いわゆる「福分」の場合に於いても、人並み以上に働いて勤勉努力を尽くしても一向に成果が上がらず、苦労に苦労を重ねている人が居ると思うと、一方に於いてはする事為す事トントン拍子に成功して忽ち人並み以上の財産と地位を得、家庭的にも恵まれて「徳な人」・「福のある人」と羨まれる者もあります。その因縁するところは深く且つ遠く、簡単に結論をつけることは出来ませんが、これらは「福徳」が蔽われて一向に発動しない人と、「福徳」の発現が円満に行われている人との一例であります。思わぬ手違いで事業に失敗し破産に瀕する者があるかと思うと、際どいところで大損失を免れる者もある。是等はみな「福徳」の発動の薄い厚いによるもので、常識的な人間の智慧才覚や科学の力などで到底手の届くところではないのであります。

宇宙間に充満する生々化育のハタラキ、これが人間に宿って「壽徳」と「福徳」となります。この霊徳を神力と称するも佛力と称するも自由でありますが、宇宙の分身とも言うべき人間の生涯に於いて「生きて行くハタラキ」として現れる場合、その内面の奥深い原動力は天地と一つの繋がりを持つ神秘な霊徳に発している事実を認めねばならないので、この一大事実を如実に信ずる時、初めて信仰の楽園の扉が開かれるのであります。この霊徳は誰にも具わっている人間本来のハタラキで知る知らぬに拘わらず其の人の生涯を支配する「運命の潜在力」でありますが、人もし明確にこの力を自覚して一疑なくその霊徳を信仰し、人生の影に不滅の光明を放射している此の運命の原動力を最大限に利用厚生するならば、人生の改造は断じて可能であり、壽徳福徳の恵みを並び合わせて幸福なる人生の第一歩を踏み出す事が出来るのであります。この「壽徳」「福徳」の力を呼び寄せ、其の内面のハタラキを円満完全に発動させるのが「福壽海無量」の霊唱で、幸福の宗教「福壽講」の教義は、実にその教理を茲に樹立しているのであります。

 ○霊唱の方法
「福徳」と「壽徳」を呼び寄せ、其の霊徳を完全円満に発動させる霊唱の方法は極めて簡単であります。姿勢をなるべく正しくし(普通は正坐して行いますが、病人などは臥したままでも宜しい)心を静めて瞑目合掌し、「福壽海無量」「福壽海無量」「福壽海無量」・・・・と何度も繰り返し繰り返し一心を凝らして唱え続けるので、時間の長短は自由ですが普通十分間以上、更に続けて三十分一時間に亘るも宜しいのであります。(壽はジュと言う音とジウと言う音と二通りありますが、この霊唱の場合は必ずは必ずジウと長く発音します。また無の音も霊唱の場合に限ってムウと少し引っ張り加減に発音します。即ち福壽海無量・フクジウカイムウリョウ・フクジウカイムウリョウ・・・・と言う風に長めに調子よくと唱えします)声の高低大小、緩急加減などは其の人の自由で、場合によりては口の中で小声で低唱してもよく、また音声に出さずに心の中で黙唱してもよく、その場の気持ちに合うよう、身体の調子と合致するよう随意にされて宜しいのでありますが、至誠を凝らして根気よく続けてゆくことが肝要で、病人の方などは無理をして正坐なさらずとも抑臥のままなるべく姿勢を正しくし軽く胸上に合掌して低唱または黙唱されれば宜しいのであります。かくて此の霊唱を根気よく続けて行くうちに、忽然として自分と霊唱が合体して一枚になったような明るいうっとりとした心境が開いて参ります。自分が霊唱か、霊唱が自分か、全く霊唱と自分とが一つに融合して天地一体となって、ただ明るい希望と歓喜が際限なく続いて、自分の心も身体も天地一杯に拡がって行くような妙境に到達致しますと、知らず知らずの裡に健康状態も好調となり、全て身辺の環境が明るく楽しく展開して壽徳福徳の金波銀波がひたひたと押し寄せている事に一驚するのであります。

どうにも打開し得なかった経済上の難局がいつの間にか解決の緒についているとか、八方塞がりを嘆いていた事業に思わぬ方向から展開の光明が射し込んでいると言う風な財運関係から家庭問題・人事百般を通じて諸々の悩みは解決され、無限向上、無限発展の霊徳は滞りなき発動状態に入り、天授の福徳壽徳の最大限を恵まれるに至るので、要は一切の理屈を抜きにして至心に霊唱を繰り返すことにあります。くどくどしい理屈は一つの邪念であり妄想であります。邪念妄想の暗雲に蔽われているうちはちょうど鏡に曇りがかかっているようなもので、壽徳福徳の姿ははっきりと現れません。輝く太陽の如き明光々たる霊徳の光は、邪念妄想の影なき、一点の曇りも無い明鏡の如き心に反映してはじめて発現して参りますので、一切の理屈を離れて唯一心に一疑無く霊唱「福壽海無量」を奉唱してゆく人々こそ何時の間にか驚くほどの功徳を戴いてゆくので、不幸不運を切り替えて祝福すべき人生の改造に成功するか否かは此の霊唱を根気よく貫くか否かにかかって居ります。老若男女と問わず、三歳の童子でも出来るこの霊唱の方法は以上の如く極めて簡単なものですが、尚其の実地の模様や其の場合場合を詳しく知りたい御方は教師なり最寄りの世話人の方についてお聞き下されば納のゆくよう教えて頂けます。

 ○神秘な霊験
この霊唱「福壽海無量」の功徳をしみじみと体験し、これを周囲の身近い者や不運不幸に苦しむ人々に教え、自他の治病健康や運命の改造に幾多の神秘的霊験を蒙り、年と倶に愈々盤石不動の信念を加えて幸福の宗教「福壽講」が自ら結成されて来たのであります。唯ひたすらに信じて一心の至誠を捧げてこの霊唱を続けてゆくうちに、どなたでも意外の神秘な霊験に気づいて必ず歓喜雀躍される筈であります。

 ○照り返しの徳
「福壽海無量」の霊唱は勿論自分一人だけでお唱えしても結構なのですが、二人以上の人が集まって此の霊唱を合体奉唱致しますと、ちょうど蝋燭の灯が一本より二本、二本より三本五本と多くなれば多くなるほど互いに照り合って自他共に其の光度を増すように輝かしい功徳を発揮致します。これを「照り返しの徳」と申します。自らの光で他の光を照らすと、其の光からも照り返されて却って自らの輝きを増す理と同じ事で、他人の為にすることは、其の実この「照り返しの徳」によって倍返しに自分の為となるもので、自分の徳が他人に働きかけて他人を益し、他を利しつつ自分には恰も元利倍返しの理となって還って来るのです。他を助けながら、他人を助けただけの力がそのまま照り返されて自分には元利倍返しの大きな力となって助け返される。此の理が腹に入って参りますと、ちょうど順風に帆をあげて進む船のように自己の霊徳発動に異常な速力を加えることが出来ます。他を助けつつ自分自身も助けられる。此の壽徳福徳慕い寄る幸福の宗教に身近い一人からでも誘い合って隣人から知人へと入信させてあげることが肝要です。人一人を不幸不運から救い、幸福の門出に導くことは実に千萬の功徳の種を蒔くことで、そのままに千萬倍の積徳のお返しが自分自身は言うに及ばず子々孫々の幸福となって照り返えされ、生涯を通じて計り知れぬ功徳を受けます。
古人は「積善の家に多き慶びあり」と申しました。人一人を不幸から救い幸福なる人生へ導くと言う事は正に善の善たることで、積善の身にも家にも「照り返しの功徳(オカゲ)」は太陽の如くに輝き集まり、期せずして諸々の幸運が雲集して参ること必定であります。一人より二人、二人より三人、三人より五人十人と出来るだけ多数の人々に此の霊唱「福壽海無量」の功徳を普及し、千萬無量の照り返しの大光明を以て天上天下を輝く幸福の楽園と化するよう努力して下さい。

■福壽海無量■
「福壽海無量」の霊唱は神仙道に於いては得仙秘文と称して太古以来極めて秘密に尊重護持されて来た吉祥の神語(シンゴ)であります。これが後世になって佛道に洩れ伝わり「福聚海無量」と訛伝されて居りますが、佛道に於いても極めて功徳深き大神咒(ダイシンジュ)として甚だしく尊ばれ、神仙道、佛道を通じて古来何れの時世に於いても幾多の奇蹟霊験を現し、此の「福壽海無量」の霊唱によりて救われた者は実に無数に達しているのであります。


 
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