神道普及の方法に就いて



以下に宮地嚴夫先生が明治期に某神道誌に寄稿した小論文を転載致します。
今も変わりないですが、当時でも神道の普及は急務であったことがよく分かるものだと思います。
また文中、嚴夫先生が「鎮魂法」の詳細に就いて論じているのも非常に有益です。
御精読になり、嚴夫先生のお考えを今日に活かして頂きたいと存じます。

神道普及の方法に就いて
掌典 宮地嚴夫

 私は、この間渡邊君が見えて、どうぞ一席の講話をして貰いたいと言うご相談を受けまして、ご注文の事も有りましたが、それは私に於いて都合が有りて、お断り致しましたところが、外の事でも宜しいと言う事で有りましたから、今日は出席致しました。
 そこで私の只今此処へ出まするまでの考察は、学説の弊害と言う題を設けて、お話致そうかと思いましたが、今出席して皆さんのお顔を拝見して、それよりも今少し適切なる肝要の事をお話し致したら宜しくはないかと言う考えが起こりましたから改めて
  「神道普及の方法に就いて」
と申す題に致し、お話しを致そうと思います。

  さて其の神道の事でありますが、之を今日に興隆し普及せねばならぬは今更に申すまでも無きことで有りますが、如何ようにも遅々として更に興隆致しませぬは全く其の普及の方法の宜しからぬが故であろうと思います。 これに反して、其の傍らに於いて仏教を広めます所の僧侶とか又キリスト教を主張する所の宣教師とか言いますが、遣り方は兎に角、その方法の宜しきより、追々と意外に其の潜在力が膨張して、ご承知の通り既に本年の初めに至りては三教合同などと言うことの一問題なりたるは、全くその潜在力の表発したものに違い有りませぬ。
 そもそも維新の初め、即ち明治三年庚午正月三日を以て御発し在せられし、鎮祭詔や大教宣布詔または其の後時々に漏れ承りたる、多くの御製などに伺い奉りますれば畏れながら先帝陛下の叡慮は我が神道即ち惟神の道を以て、我が国家の道徳を保たせ給はんとの叡慮にて在せられたること、火を見るよりも炳焉で有りますにも拘わらず、斯の道は一向に振るわず荏苒として打過ぎますに反し、傍なる仏教は大いに首を擡げ、又キリスト教も勢力を表はすに至りますより、当局者の或る部分に於いては又候外教の方を借って我が国の道徳を保たなければならないと言う威を起こさしむるに至ったは先帝の叡慮に対し奉りて、斯道に従事する者に在りては実に申し訳無き次第にて、残念とも遺憾とも恐縮此の上無き事で有ります。
 
 就きては是非共に神道を普及させる道を講じなければなりませぬが、其の方法としては何分にも極めて通俗的にして早分かりのする書を作るが第一肝要の方法で有ろうと思います。既に仏教などでも此の方法を用いて居る証拠は古本屋へ行って見らるると分かりますが、般若経でも三部経でも其の他の諸経何に限らず、誠に分かり易く通俗的に解釈して、中には絵なども挿みて、誰が見ても、女子供にも能く分かるようなものが沢山出来て居ります。あれで一般に普及するので有ります。其の実説教や講話など致して聴かすも極めて必要の事では有りますれど、話して聞かす人員は僅かの人にてとても十分に行き届く訳のものでは有りませぬ。其処で兎に角、極めて分かり易いものを書いて、そうして、それに面白味も有難味も混ぜて老若男女の貴と賎と無く誰もが喜びて見るようにすればそれは余程力になろうと思います。
 私、明治三十四年頃で御座いましたが、耶蘇教を研究する為に這いって行って見ました。其の時は旧教の方でありましたが、旧教にては先ず「ケレドノオラショ」と申すものを教えて暗誦させます。此のケレドと申すは信ずると申す義、またオラショとは経文のことですから、即ち信ずる経文と言うことになります。さて其のケレドノオラショの翻訳文を読みてお聞かせ申しましょう。其の文は即ち是れで有ります。

 万事叶い給う天地を作らせ給う御祖デウス其の御独りの子我等の御主ゼビスキリスト、スビリトサントの御奇特を以て宿らせ給うビルジンサンタマリヤより出させ給うポンショ、ヒラトの下に於いては呵責を受けクルスに掛られ死し給う石の御棺に納められながら大地の底に下らせ給う、それより三日目に蘇がへらせ給う天に上らせ給う御祖デウス御右にそなわりいまし給う、此れよりは生きたる人も死したる人も御扶け給はんが為に天降らせ給うカトリヤニテ坐ますサンタエキレンヂャ、サントスノコンニョ終わり無き御命を誠に信し奉るアーメン

 此れであります。此のオラショをちょうど日本の神道家が彼の大祓詞を読むように終始之を読まして暗誦させ又講義をして、「万事叶い給う」と言うはどういう訳で有る、「天地を造らせ給う」と言うは斯く言う訳である。御祖と言う事は・・・即ち天地を造った御祖の事を申すで有ると言うように説明して能く解かりますように出来て居るは、此れもやはり仏者と同じ方法を取って居る訳で有ります。其処で斯の我が神道に於いても之を普及させる方法は、やはり此の方法を取る外は有りませぬ。
 因って常に読む大祓の詞を延喜式の祝詞式にある通りの祝詞文の体のままにては何分にも国学をせぬ方々には余程解かり悪い。解釈もし難く有りますから、読方は古訓のままにて宜しけれど、書き方は全くの仮名混じりの文にして書く事が必要であります。そう致して尚、其の文中に節を分けて一節、二節、三節と申すように印を付けて置いて少し耶蘇教で教える真似をするようでは有りますけれど今一節の話をするとか、二節の講義をするとか申して其の話をして聞かせますれば、其れは余程解かり易かろうと思います。
 また其の外すべて神道に関係した解釈本も皆極めて平易の語を用いて、解かり易き比喩の話や、また敬神・尊皇・仁義・忠孝等の教えになる古今の事跡などをそれに書き込み、興味ある話などを混ぜて置きて、一寸見ても誠に有難味の感じられ、且つ退屈をせぬような書を沢山揃えて、其れを世間に広めるが斯道普及の方法の最も需要の点で有ろうと思います。 そうしてそういうものを揃え、諸君が教え方の書の作り方は、前に申した通りで宜しう有りますが其の書物に因って信仰心の起こりたるものを弥々実の神道の信者にせねばなりませぬが、其の実の信者に為す方法が能く整って居らねば一時信仰心を起こしても固まらぬ内に外教の説を聞きて、其の方に変ずる例も少なくありませぬから、此れが尤も注意を要することで有ります。
 さて其の方法で有りますが、先神を信ずる心を起こした人が有りましたならば、直ちに其の人には其の神に仕える仕方、即ち拝み方を早解かりの出来るように教えるが肝要で有ります。
 それは如何様にしれば宜しいかと申すと、

 1)先神前に向かいて着坐し慎みて二度拝む
 2)それより手を二つ拍ち、其処で祓の詞を読む
 3)終わりて更に手を二つ拍ちて二度拝む

此れで祓いの儀が終わった訳で有ります。其処で更に

 1)二度拝む
 2)手を二つ拍つ
 3)神拝の詞を申し上げる
 4)更にまた手を二つ拍ち二度拝む

此れが普通の神拝の致し方で有ります。
 もし何か祈願にても致すことが有らば此の拝式の神拝の詞を申す所にて、祈願をすれば宜しいと申すように、其の敬神の致し方を教え無ければなりませぬ。なお其の神拝の詞なども別に祈願することも無く、唯拝み奉る時の詞は、

 「掛巻も畏こき、某の大神の大前を慎み敬い畏こみ畏こみも拝み奉る」

と申して拝めば宜しいと申して直ちに神に仕えることの出来るように教えまして、なお其の人たちのなろうとならば毎月日を定めて二回にても三回にても集合させて、若しも神社または教会等を会場としてする時は直ちに其の神前に向かい、また普通の家にてならば神号の掛軸をかけるとか、または神籬を立てるとかして其の神前ににて祓式拝式を行うとかするが宜しいで有ります。
 斯ように致して其の信者の信仰を充分に鞏固ならしめねばなりませぬ。 以上は一般の人に信仰心を起こさしめて其の信仰心を鞏固ならしむる方法に就きて申しましたが今度は神道を教える教師となるに就いて一言致したいと思います。
 それに仏法を説く僧侶でもキリスト教を教える宣教師でも、皆其の事故の精神を修養する方法が有りて、坐禅をするとか静坐を行うとか祈祷の法を修むるとか、何れも中々に修養法を力みて怠りませぬ。其処で彼が道とする所の当否如何と言うは暫く別問題とし、此処にては論じませぬが兎に角に其の教えに従事する人物の中には往々に有為の者が顕はれ来て寺院を建てるとか教会堂を設くるとかするによりても動もすれば成功に至るものが少からぬようで有ります。
 然るに神道家の方にも此れと同じようなる精神の修養法も有りますれど神道家に然ることまでに注意をして真実に道の為に力を尽くす人が少ないように思われます。此れは実に斯道に従事する者の欠点と申さねばなるまいと思います。就いては其の神道の修養法は是非ともに神道教師を以て任ずる人は、之を修むるように致したいことで有りますが、其の法は即ち鎮魂法とも安坐法とも申して、

 1)先ず正しく坐して此の我が鼻と臍とを対するように致し
 2)次に我が両方の肩と肩とをも能く対せしめ
 3)斯ように致せばちょうど我が胸の辺にて十字形を為すようにする

 其処で愈々気を静めて少し心持ち下の方に向かう意を用いて、我が体中全部の濁気を吐出すと思い、心静かに気を吐き出すことを三度致します。此処に於いて一切の妄想妄念を去り、心頭に一点の物も留めず、極めて清浄ならしめ鼻より静かに大空の真気を引きて此れを臍下二寸四分の下なる気海丹田の所に満たしめ、気極まればおもむろに口より吐きます。
 しかし其の気の出入りする音の耳に聞こゆるの無きように極めて静にするを以て要と致すで有ります。此の気を引きて気海丹田に満たしめ、其の気極まればおもむろに出す、此れが即ち一呼吸で有ります。
 斯ように致して時間が許せば長く致す程が宜しきで有りますが、其の安坐をする時期は一日の内、成るべくは夜の子の刻より昼の牛の刻までの間を以て善き時間と致すで有ります。それは何故かと申すに、此の間は天地間の真気の上昇する間で有ります故に、其の気を吸えば大いに我が真気を補うで有ります。また昼の牛の刻より夜の子の刻までの間は其の反対に天地間の気の下降する間で有ります故に、其の気を吸いても補いとなりませぬ。それ故、何の修行をするんも朝から昼までの間が宜しきで有りますが、此の安坐を致すは殊更に此の時を撰ぶ必要が有ります。
 さて此の鎮魂法を行う時には一二三四の神咒を黙唱するとか十種の神宝に因りて観念するとか、また安坐法に就きても種々の観念の致し方等が説てありますれど、其れは中々一席のお話には申し尽されませぬ故に又別にお話することに致しましょう。然るに此の精神を修養する法を修むる目的は何処に在るかと言えば、
  「我が精神と宇宙の大精神と、元一体なる事を感得する」
が主眼で有りまして、黙唱・観念等の法を用ゆるは其の目的を達する為の方術で有りますから余り拘泥するにも及びませぬ。然るに仏教なども其の修養に於いては粗相似たるものにして、其の一例を挙げますれば既に真言宗の般若経などでも其の意の外なりませぬ。其れは即ち般若心経の始めに「観自在菩薩、深般若浪羅密多」を行ずる時、五蘊皆空なりと照見して一切の苦厄を度すと言って有りますが、此れは如何なる意義のものであるかと申すに、仏説にては五蘊と申すは、人の身と申すものは「色受想行識」と申して、

 一に色とは人に色と言いて白きとか黒きとか色と言うものが有りて、其の色より種々の迷いをも生ずるもので有る。
 二に人には受と言いて此の体を父母より受くるを始め誉れを受け謗りを受け其の他種々の受くるを言うことが有る
 三には人には想と言いて想うことが有りて楽しくも想えば苦しくも想い、嫌とも想い好きとも想うを始め種々に想うと言うことが有る。
 四に人には行と言いて行うことが有りて善を行い悪を行い其の想う種のことを種々に行うことが有る。
 五に人には識と言いて識ることが有りて色をも識りて居れば受くることも識り、想うことも識り、行うことも識り、識ることも識て居るもので有る。
 此の色と受と想と行と識との五つのものが寄り集まりて人の身と結ばれて出来て居るものと致して、之を五蘊と申すので有ります。此の蘊と言う字は「アツム」とも「ヲサムル」とも訓む字にて、即ち色受想行識の五つのものがアツマリて人身と成りて居ると申すの意で、之を五蘊と申すで有ります。其処で其の五蘊の仮に結ばれて生まれ来て居る人身の色受想行識の五つのものは皆空なりと照見してと有る。皆はミナ総てと申すこと、空は「ソラ」とも「ムナシ」とも訓み、空虚とも熟する字にて、皆空と申すときは皆無空にて無きもので有ると申すの意。また照見の照は「テラス」、見は「ミル」と申すことで有りますから、此処にては人身の五蘊と申すものは総て空無のもので有ると心中に照らし見て悟りを開きて一切の苦厄を度すと総ての難苦も厄難もみな逃れてしまうと申すの意で有ります。此れが前に申した神道の安坐に能く似て居りますが、其の極地の所に至りて大いに異なる所が有ります。
 それは何処が異なるかと申さば、仏法は結局「無」と申すに帰してしまいますが、神道は之に反して其の極有に帰しまして、真言にては「阿字観」とか「日輪観」とか中々精神修養に骨を折り力を尽くします。其処で前にも申しましたように往々有為の人物も出来るで有ります。しかしながら我れに於いて是等に少しも遜ることは有りませぬ。前にも申しました通り、我れには尚此れよりも数層勝れる修養法が有りますれば、人々大いに奮起して本気に成り、広く世界の学問を研究するは申すまでも無く、また時々我が精神の修養法をも修めて各自所謂大有為の人物と成り、前に申しました此の神道普及の方法を実行せんには我が国維新以来の発展とともに、斯道をして宇内に光被せしむるに至るべきこと、鏡に掛けて見るが如きで有ろうと思われます。しかしお話は尽きませけれど、余程時間が移りましたから、今日は先ず此の辺にて局を結びまして、余りはまた他日にお話し申すことに致しましょう。(完)

 
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