外患攘除禁厭神法(重秘)

此の書は南岳先生主宰の神仙道本部より発行されました『外患攘除禁厭神法』なる重秘の本でございます。
 本書は神仙道本部より宮地美数氏の解説が附いて発行されたものです。

本来は本書の如き秘傳は門外不出の書であり公にするべきものではございませんが、八幡書店さん発行の「神仙秘書」に神咒を欠いて載っておりますので、此処にご紹介することに致しました。
このような特殊神法が綿々と伝えられているのが日本の日本たる由縁でございましょう。
本書による特殊神法で如何なる病魔も快癒するとのことです。勿論術者の方の技量に依りその効験の大小が左右されることは言うまでもございません。

つい最近ですが、一般の方が普通に入手出来る書籍に本書の神咒のみ載っているのを見つけまして大変驚きました。
そこには本書に記してある特殊な施行方法などは載ってはおりませんが、此の神咒は霊誦するだけでも絶大なる効験があるとのことですので、その神咒だけでも見つけ出して戴きたいと思います。尚、以下の記述にもありますが、其の神咒は出雲文字で書かれており、本書にも伏字がございます。
さて、何人の方が此の神咒を見つけ出せるのでしょう。勘の良い方でしたら上記の文章にその書籍のヒントが隠されていることを見い出しておいでだと存じます。

大己貴大神神傳 
   外患攘除禁厭神法


外患攘除禁厭神法秘事秘文の由来

 堅磐幼年の頃当潮江村の大城戸と云う所に住みける川村茂之助と云う者あり。この者の春秋左伝に力を尽くして暗誦せる程に至れば余も其頃氏頻りに此の書を読み窺う折柄、川村氏を度々訪れて互いに論究せしが漸次入魂(じっこん)になりて兄弟の如く親しみて互いに朝夕に行き往い共に諸学を推究せんと誓い約して学びけるに討論度々にして或いは夜の更ける至れば堅磐が家に宿し或いは又余も川村氏にて一夜を明かす事屡々ありしが、川村氏書籍を誦み狂いてはからずも風癪病を発したり。
 其の時余も屡々訪いて其の心を慰むる間、聞き入る様も非ず、只々左伝の事をのみ語り或いは地に降りて竹木の折れたるを取りて地上に文字を書く。悉く左伝の中の文字なり。其の書するときに当たりては四五十字書ては人の顔を見て笑い又二三十文字も書きては莞爾と笑い此れの如き事日々なり。
 禁厭薬術を尽くすと雖も、功を奏せずして術も殆ど尽きんとす。川村氏に一人の老母ありて年七十五六歳と思えりしが其の老母日夜茂之助の狂乱を悲しみ種々に何くれとなく治療の術を探り人の勧めによりて灸などを致さしめて茂之助の背には灸点の跡のみにして美はしき皮膚更に無きに至れり。
  百方千術を尽くして益無き上にふと悪疫を発しけるが日夜盛んにして左伝を誦読して止まず。遂に死に至らんとするの際老母、堅磐に向かい、神々様の符札禁厭等は更にてあらゆる薬も尽せしに其の験もなし、其の上かかる大病を発せしは前世の報いなるか、茂之助に兄ありしが十八にて悪疫の為に死せり。此茂之助も当年十八歳にして又々同じ病に罹りしは是れ前世の約束事ならむ。我れ長寿せし故にかかる憂き目に逢うぞ最もつらかれ、なる事ならば茂之助の代りに死にたし。しかれども老少不足の命なれば、此の母も共に気を失いて頓死すべし。
 医者は昨日より匙を投げてお気の毒なりと申すばかりにて、今は運を天に任せて神明に祈る他なし。若し悪運にて茂之助死なば、此の川村の家は断絶すべし。さすれば財宝ありても益なし。我が家に累代伝来せし一箱あり。其の中に一巻の巻物ありて大穴持神の御法なりと言い伝え極々に秘蔵し来りたれども、其の文字を昔より読みたる人なし。故に病者あれば、其の巻物を以て首の上に戴かせ来りしが病者も多く全癒せしが、此の度の茂之助の病につきては毎夜戴かせしも其の験無し。されば其の品ありて家内の者の病気に験なければありても益なし。君と茂之助とは其の親交も睦まじ、今は君の御一覧に供すべしとて長さ三尺、幅二尺ばかりの箱を一間より持ち来れり。
 
堅磐敬礼して是を開くに、其の箱二十重の箱なり。開き見るに出雲の国の古代に制したる文字を以て之を書きあり。堅磐俄かに読むにあたわず。故に写し取りを乞うに模写せしものありてそれを授かり受け、速やかに帰宅して一一読み終われば、是れは外患病を攘除する禁厭の唱え文なり。
 よって俄かに川村氏宅に行きて病者に向かいて其の詞を数返唱えけるに今迄相悩み苦しみけるも夢の醒めたるが如く快兆を現わしければ、老母も喜び嬉し涙にくれたり。
其の翌朝にまた見舞いに行きて唱えければ漸々快気して十五日に至りて閨を放るることとなりて彼の風癪病も共に治し益々親睦を深くして行く程に川村氏は阿芸郡玉造村に転居せしが、其の後三年ばかりは堅磐が宅に訪ね来りしが漸次他疎々しく遠ざかり、殊に堅磐も茂之助も己れの志を達せんと諸国を遍歴する身となりて音信も自然に絶え、今は何処に住みけるか詳からず。
 先年安芸郡玉造村の人来て、川村氏の事を問えば、此の二年前迄は我が隣に住みしが、村人等川村氏を字(あざ)して禿左伝と呼ばるるにより、それを忌み嫌いて何処か転居せられしと言えり。是は彼の悪疫に罹りて髪の抜けて禿になりて居りし故なり。
 さて彼の秘め蔵したる書は今は何処へ行きしか、又彼の家に重宝として秘め置きけるか詳かならずと雖も、恐らくは人の手に落ちしと思わるるなり。そは今を去る事十八年も前の事安芸郡玉造村より一巻の宝物とて何れの者とも知らぬ者が高価にて買い取りたりと言える話ありしが、今思えば、それは件の巻物には非らざりしかと疑念せらるなり。
 然るに件の巻物は最も古き物にて朽ちたる所多く、殊に虫の入りて文字の解し難き所ありて只文字の珍しきなど古物を賞翫するに留まれり。
余が授かりたるは其の写しなれどもこれは文字も昭然として損害ある所なし。
 此れも二三百年前に写せしものと見えて近年に写せしものにあらず。こは原書の朽亡を恐れて後世に伝えん事を思いて写し置きける物と推し量らるるなり。其の模写の書は去る明治十八年三月矢野玄道の求めに応じて之を譲れり。其の時に余がそれを写し置きたるをまた左に写して後世に伝え禁厭の術を信じて之れを施法する者の宝詞たらしめんとす。之れを受くる者必ず凡夫に軽々しく伝授することを許さず。

明治二十七年夏      
                        
宮地堅磐誌す



戻る