異 境 物 語
                                      
宮地常磐

本書は宮地水位師仙のご尊父であります宮地常磐先生の数少ないご遺稿の一つでございます。
「宮地神仙道誌」に連載されていたものを活字化致しました。
比較的短いものですが、貴重な幽界の記録であります。
 これは安政5年に常磐先生が潮江町在住の岩蔵と申す者より聞き書きして残したものです。


発辞

 此異境物語は、さきに我が同じ郷なる岩蔵というをのこ、江戸にて異境に伴われたることのあらまし、父の親しく聞取りのままを筆記し給へるなるを、世人の心さたさたにて自ら幽境に通ずと慢する類は古今の正しき書に見えたる彼の境の形状をも考へず、猥らに信じて却って惑ふこと少なからず。
 また幽境のあることを確かに知らぬきはは、痴人の夢物語よとあながちに云消して、とり見るにも狂乱せる如くいふめる故に、いささか茲に言挙せむ。
 先ず幽境のことは此の顕世の人おしなべてたやすく見るべきに非ず。理を推してみだりに知らるべきに非ず。ただただその境の者に伴われて千里万里の遠きも一瞬の間に往復し、或いは人の登り得られぬ高山峻嶮の上、また降りも得られぬ深渓幽隠の下にゆき、或いは人の常に行き交ふ柴山また川辺などに遊びて限りなき幽境の形状を見る事あるもの也。
 そのありさまを聞いて如何に其山を挙げ巡り、その川に潜るとも、凡て見ることのなきは、その境の許しを受けざるが故なり。 抱朴子に、
 『山大小と無く皆鬼神あり。其鬼神芝を以て人に与へざれば、人則ち践むと雖も見る可からず。云々』
 また幽界物語に島田幸安が、花山は人間の見る時は小山なれども幽界に入りては一仙境なりと云へるを思ひ合すべし。
 さて彼高山寅吉は東叡山の前なる五条天神の辺にて杉山僧正に伴われたるよし仙境異聞に見え、また此物語に記せる岩蔵も東叡山なる二本杉の神に詣でより大山僧正に伴はれたること、また彼の寅吉は杉山僧正より白石という名を授り、此岩蔵が大山僧正によりキフという名を授り、両僧正とも羽団扇を携て飛行して内外諸国の峻山海辺市井村落を往復するなど趣の同じく、また名社古刹ともに時々参拝することによりて思へば神仙界にあらず佛仙界にもあらず、其中間に位せる一境界なるかと覚ゆ。そはとまれ彼の界に誘はるればこそ寅吉も岩蔵もかかる非常の事はありけれ。かくて異境に伴はるるに三の差別ありて、現身のまま誘はるるあり。また魂のみ誘はるるあり。又身も魂もさながらにて其の境の形状を眼前に浮かべ見せらるるありて、古くも幽境山宮の形状を顕して人に見するを山市といひ、海上に形状を見するを海市と名づけて詩賦にも見えたり。さるからに岩蔵が釜山海の湊にて見たりという大仏の像も、現に有りや無しや知らず。近来かの国に往来する人多けれど、さるものの有るよしにも聞及ばず。かの山市海の類を時に顕して見せぬものとぞ覚ゆ。
 然るを只此物語の本を深く信じて真に神仙の冥府に往復せる如く思ふは誤まりなり。またかかる類を只に痴人の夢物語にて極めて無きものなりと云はむは至て愚なり。かかる類の物はいと多し。上に云へることども思ひ合わすべし。依りて巻端に一くだり誌す。

  時は明治三年十一月一日になむありける。
                                         男 堅磐識



 土佐国土 佐郡なる潮江村土居町と云ふ所に岩蔵とて日々鏡川尻に漁して世を渡るをのこあり。
 去し寛永の元年、国君江戸へ参り給ふとき御供の小人の部に加へられて江戸の御邸内にありける内、不図異境の人に伴われて諸々へ瞬間的に往来しけるを、此事は必ず慎みて人に語るべからずと彼異人の戒めをけるを背きて、人間のゆき得られぬ所を見しうれしさのあまり同部の者どもに我だけく物語しけるが、幽冥の掟ありて顕世は漏らすべからず事どもをあはただしく顕せる祟りによりてにや遂に狂乱の疾発れり。故に船の便に本土にかへされぬ。かくて年を経、月をつむままにいつしか病をこたりややもとの身にかへれり。依りて一日わが許に呼びて彼の幽境に往来せることのあらましを問ひこころみ、彼のをのこが答ふるままにかいつくるになむ。

  時は安政五年と云うと歳の七月七日           
                                           宮地常磐


 問て云う。汝さきに異人に伴われ彼の境に往来せる時の順序詳しく答ふべし。
 岩蔵答へて云う。去し寛永の元年七月甘一日国君の大江戸に上らせ給ひけるとき諸人の勧めによりて御小人のむれに加わり御供つかへまつり翌月の中つ頃に江戸の御館に暮し給ひけり。此年私三十六歳なり。
 然るに其月も過ぎて次の月、故あり叡山なる二本杉と云ふ処に、何の神の鎮まり給ふと云う事は知らねども尊き御神の鎮まり給へる如く心に浮みけるにより幾度となく参詣して願の道を一筋に祈りけるに、毎夜に枕かへしと云ふ怪事の始まりけるが、いつも二本杉の方に頭を向けられければ、定めて二本杉の御神の御仕業なるべしと心に思ひしられ、後には彼の方へは足を向けず臥しけり。
 斯くて爾来なおさら信心を凝しけるに、或夜裸になりて御長屋の遮欄(ヤギリ)の内に着物一重を身に覆ひて臥しけるに、其夜の四ツ半時ごろ御長屋の二階の遮欄に物音しけるにより窺ひ見れば、頭に黒き物を冠り、山伏の着たる様なる衣を着たる人と、羽翼のあるものの四人計り、中に大将と思ひしが一人身の丈高く眼大きくして甚だ恐ろしき容貌にて赤き衣を着し黒き冠を戴き太刀を佩き羽団扇を持ちて立てり。
 傍らなる人来りて私の覆ひたる衣を取りて私に着せ帯を締めけるに、大将と思しき人の云ひけるは、汝此者の背に負はれ来るべしと云うからに翼のある人に負はれけるに、此時大将(大将是を僧正と云ふ、清音を以て唱ふ)羽団扇を打ち振りけるに、家棟の瓦も落るが如き音して忽ち大風起こり身を飛ばすが如くなるに僧正先に立ちて飛び行く。私は鳥の如き人に負はれ後より続いて行きけるに、黒衣を着たる人左右に附き守護しけるが、其飛行の速き事矢玉よりも速くして耳は切るるが如く痛み、此時惣門の上を通り行き常に信仰する二本杉に着き、大木の上に私を置きて僧正申しけるは、今日は我に大山本山を免す、是に依って柳の間にて勤めさすと申されけるに、三人の方の申さるるに、僧正の大山本山を免すとは有難き事なるぞ、其方明神様へ日々信仰なるが、明神様は此下に御鎮坐なり。是は四社あり。尤も二社づつ並べて二つに別ると申しける。又申されけるに汝是より大山へ直に使はすと申されけるにより、此儀は御赦し御仰付度と申しければ僧正又申されけるは、然れば此杉の上に三日ばかり置きて諸大名に見すべし、然れば必ず不審をすべしと申されける。其時の恐ろしき身に沁みていかがはせむと思ふところに三人の方申されけるは、此者は別に望み御御座候故右の如く申し候と云ふ。僧正の申されけるは、其望みとは何なるやと、私答へて大山を勤め候得ば大納言の位を給へと申候に、僧正笑ひ給ひて、それは京都三社へ届置くべし、本物とは二神伊邪冊尊並びに日の権現八幡大菩薩四社へ届置くと申され、其れより三人の中の一人は大山の方へ、一人は私を背に負ひて僧正様先に立ちて本の御屋敷の遮欄の傍に帰り著きて僧正申されけるは、其者は大山を辞退故此処より投込むべしと申されけるに早速座敷の真中へ投込まれたり。僧正又申されけるは、其者はつい怪我は致さざるかと問ふに、投込みたる人来りて私を改めて怪我はなしと答へければ僧正を始めて従う人々いつとも知れず消え失せ給ふ。
 それより三晩ばかり間を置きて又夜の八ッ時頃、僧正を始め附き従ふ異人ばかり又翼のあるが一人やぎりに来り給ひて、僧正申されけるは、その方大山本山を了へば諸社へ参拝致さずては叶ふまじ、翼のある者に負はれ行くべしと云ひて、僧正先に立ち左右に四人づつ八人附き大空に上り、相州浦賀の湊の上を通り、勢州両宮へ参拝し、それより大山へ行く。この大山は八丁ばかりの山にて初め二丁ばかりの所に清海が滝があり、此時僧正上の滝へ声をかけ、此度大山本山を相勤むる者召しつれ参拝仕ると申されければ、上の滝にて宜敷くと答へあり。
 それより又二丁ばかりの処の中の寺と申すあり、此処に地獄の権衡(ハカリ)ありて人の善悪を知り給ふ。私此のはかりに掛けられたるに、僧正申されけるは、此者獣を殺したる事顕はるけど、其の獣の仕業の悪しかりし故に罪咎は少なし。後刻此者を伴ひ帰る雲路にて浅間山の煙にうたせて罪を清むべし。(此獣の事は私魚を料理せる時猫来りて其の魚を口に咥へ走らんむとするに包丁を振り上げ嚇し候処不意柄が抜けて猫にたちて死にけり、此事は若き時なり)此上には尊き処あれば祓をして参るべしと申されけるに、傍の人私の後より麻を持ちて祓ひ清め給へり。それより半丁ばかりにして奥の院と云ふあり。
 此処に社あり、其社はもと伊奘諸尊の天降り給ひしところなりと申されて其処に行きければ小さき穴あり。穴に入れば踏石あり。向ひの左に滝あり。其滝の下は淵にて水面は紺青色にて落つる水は逆に飛び上がり通常の人にては中々渡る事出来難き故に又翼ある人に負はれて向に渡りければ、左の方は青色の岩にて菊の彫物あり。花は朱にて塗り、葉は緑青にて塗れり。此所より向は上下左右共に水晶の如くにして八畳敷ばかり平かなる岩ありて光麗しく、其の奥の上の方に高さ一丈余りの丸き穴あり。此穴に六尺ばかりの石にて作れる神体あり。是は伊奘諸尊の御かたちと申され、又是より上は穴あき通りて大空の見え甚だ奇妙なる処にて仙人等の深く信仰し給ひて此山の名を菊山と申せり。また僧正申されけるは、花は吉野の桜といへども此の菊山の花が本ぞ、忘るる事なかれ。日々此方を向きて拝むべしと申されたり。それより此処を発ちて大峯山へゆき滝にて行せり(滝の水深谷の水杯にて身を先ひ清むるを行と云ふ)。それよりわりの岩を通り、下なるきよふしやを逆さに拝み、後より帯を取りて、いかに岩蔵恐ろしき事なきかと申し給ひ、それより高野山へ参り、奥の院へ参拝し、次に紀州もっこく山へ行き、それより大海を通り、当国の東寺へ着き、本堂を拝し奥の院へ参り、それより津寺へ行き、それより神峯金比羅片地剱尾権現一宮はけかはし寺へ参りたり此時二人の女に出会ひけるに、僧正申されるは是は此山神なりと申されたり。
 それより本山郷五陵土佐郡工石権現三谷の観音、それより朝倉の木の丸殿、それより新川の若宮、佐川の横倉山へ着きけるに、中の宮にて女の声聞ゆ。それより此処を発ちて須崎へ行き滝へ行き此処にて後へ引き帰し給ふ様に覚ゆ。それより笹山の尾笹の宮を拝し、それより沖へ出て足摺の火の山といふ処の奥の院を拝し、此処にて僧正申されけるは、此の日の権現へ参拝して御請あれば火の雨降ると申されける故に、日の権現を拝して遥に南方へ出でけるに、忽ち火の如き雨降り来り甚だ怪しく思へども、僧正の御供故に少しも焼ける事なし。
 又僧正の申されけるは、是より一丁ばかり先へ行かばいさみの雨降ると申され、行きて見れば忽ちに降り来れり。それより梅の花石、座頭の昼寝石など諸所見物致し、それより安芸の宮島へ行き七夷を見まはり、それより岩国の方へ行き、そろばん橋を眺め長州下関を見物し(私此処の前後を覚えず候)それより有馬の水天宮を拝し、(此時方角を失ふ)それより箱崎八幡大宰府の天満宮(此時の飛行玉よりも早し)豊前の彦山宇佐八幡宮等諸処へ参拝し、又それより薩摩の方へ行き片富士へ参り(此山は辰巳の方と思ふ処に時ち聳へたり。
 下を見れば何丁とも知らず遠く見えて甚だ恐ろしく身の毛もよだちたり)それより日向の霧島山へ行く、此処に女仙の宮あり。家棟は柴の如く宮柱は色どりしたる如く見えて其美はしき事言語の及ぶ処にあらず。宮中に女の声聞こえ、また男の声も聞こえたり。それより何処とも知らぬ大きなる宮へ行き、それより高千穂へ参り(此山は殊の外大きなる山にて宮も多くありて広大なる事例へ難し)、それより大海を通り琉球を越し、釜山海へ行く。
 此処に大きなる大仏の立ち姿あり。大きなる事は湊を跨ぎ、目鼻耳に燕鳥など巣を構へ群り居たり。此時私怪しく思ひて、いつの世に出来たる物に候哉と尋ねければ僧正いつ頃出来たるや知らずと申されけり。此処より遥かに上空に上り西の方に向ひ飛行しけるが、暫時にして天竺の境へ行き文殊をあとにして南天山と云へるへ行く。此南天山は諸木は見えず、大きなる南天の樹ばかり有り。其枝に腰を掛け居たるに、僧正申されるは、是皆南天の木なり、手を揚げておさへ見よとあるに、仰せに従ひおさへ見れば南天の実なりたり。此処にて僧正をはじめ皆々何処かへ行かれけるに、私をあとに残し置きたる故に、最早御帰りありつるかと思ひ待ち居たるに、暫くありて帰られたり。それより又大空に上り、東の方に向ひ飛行し、北海の方へ帰り、越中の立山の山王日光の権現並びに弁天大明神へ行く。此所に中の池と云ふあり、是は火の池とも申し、又次の池あり是は弁財天の御たらひの池と申し、又其西の方に血の池と云ふあり。又地獄の竈と云ふありて、是は八石ばかり入る様に相見え、此釜に蓋あり、其の蓋を取ればいつにても湯玉とびかへり甚だ奇怪に候。
 それより此処を立ち出でて信州戸隠山に行き、くつ竜権現へ参拝す。此時附き従ふ人々、梨を取りて私に渡し、又一尋ばかりの串を持ち来りて、私が持ちたる梨を取りて先に刺し、又私にそれを渡しけるに、私速やかに宮へ奉りいなやふるひ居けるに、僧正申されけるは恐るる事なかれこれより善通寺へ参らむと申され、それより善通寺へ行き、それより浅間の日の八幡に参りたるに、此山の上に八畳敷程の穴あり。煙立ち上り硫黄の香甚だしくて通るべき様もなく思ふ所に僧正申されけるは、此煙にうたせて罪咎を清めずては叶ふまじとて、煙の上を飛び廻りけるに、私の着物焦げるが如く思ひたり。それより暫くして御屋敷の遮欄の中に私を伴ひ帰り給ふ。此時僧正を初め従ふ人々の如く何方へか失せ玉へり。其後も度々僧正に伴れて諸処へ参りたる事あれど又日を期して申し上げ候。

  ○羽団扇は柄は青具塗りなり
  ○羽団扇の左右に目鏡あり
  ○羽団扇の下の二枚の羽は赤色なり
  ○羽団扇を振り行くを、センをさすと云へり
  ○天狗の翼左右に金色の山形あり
  ○天狗頭上の左右に立ちたる毛あり又背に左右へ分かれたる毛あり
  ○空中を飛行する時は錦を践むが如し
  ○僧正の年は四十歳ばかりに見ゆ。


 
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