何を為すべきか・・・


人間、何を為すべきか・・・。

日々楽しければいいのか!?
篤胤大人の如く帰幽後の魂の向上に専念すべきか?
しかし多くの人間は普通に生活出来ればそれでいいのだとも思うのです。

顕界の幸せに背を向け、妻帯もせずに神道の為にだけ人生を捧げた矢野玄道翁。果たして此の姿勢が正しいのか?
皆が妻帯せずに神道の為に人生を捧げてしまったら、日本国民が撲滅してしまう。
日本民族の子孫を残す事も吾々に課せられた使命の一つである。
顕界に幽界の情報を洩らした為に冥罰を受けた水位師仙と紫龍仙師。
冥罰により晩年は体も動かす事が出来ぬ程苦しむのを承知で後学の徒の為に幽界の情報を知らしめて呉れた偉大なる先人達。
その先人の魂の咆哮を無駄にしない為にも此の道を知るに至った者にはそれなりの責任が生じるのであろうと思う。
此の道に巡り会った人間はやはり何かしらの神縁があるのだ。
そうでなければこのような秘教的な思想に触れる筈が無い。

人間、馬鹿にならねばならぬのだと思う。玄道翁も「神道馬鹿」と云えよう。馬鹿は莫迦なのだろう。
馬鹿に成り切れぬ中途半端な人間の多いこと多いこと。
「馬鹿に成れ!」と私は声を大にして云いたい。
如何に馬鹿になりきれるのかが問われているのだと痛感している。
因みに此の「馬鹿」には以下に記す如く二種類ある。
本物の馬鹿者(=うつけ者)と玄道翁の如くのまっすぐその道のみを突き進むが如きの「いい意味での」馬鹿者である。

平和な日本。
紛争の絶えない世界。
皇室のある日本。
天皇の坐します日本。

大東亜共栄圏の思想は間違えていたのか?
大東亜戦争前に白人に蹂躙されなかったのは地球上に於いてほぼ日本だけである。
亜細亜は云うに及ばず、南米・アフリカの国々は皆白人の支配を受け、現在でもその植民地があると云う惨憺たる現状である。
大東亜戦争は亜細亜開放戦争だった側面が強いと私は解釈している。
日本が欧米と戦い、まずは東南亜細亜を白人の手から開放した。このように日本が亜細亜の国々を植民地化したお蔭で結果的に亜細亜の国々は独立する事が出来たのだ。
此処に深い神意が介在していた可能性もある。
日本が『神國』であれば負ける局面で神風が必ず吹いた筈である。
しかし日本は敗戦の憂き目に遭う。此の敗戦は長い眼で見れば日本及び亜細亜の繁栄を齎したと云って過言ではあるまい。
悲しむべきはその繁栄とは「物質的繁栄」であって「精神的な繁栄」で無いことである。
神仙界は厳然たる階級社会である。民主主義とはかけ離れていると聞く。幽界の写しである顕界がなぜ民主主義なのであろう?
果たして暗愚な民の「民意」を聞く必要があるのだろうか?
福沢諭吉は云う、
 「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」
天(神仙)は人の上に立つ人間を作る。云わば支配者層を作っている。諭吉の云う事はキレイ事に過ぎない。頭でっかちの学者の云う妄想の一つで単に「戯言(たわごと)」に過ぎない。
それを有難がっている現在の風潮は何処かおかしいのである。
世間の波に押し流されるのではなく、自ら流れを作り、おかしい風潮は直していく気概が必要とされていると思う。

一時期、満州国にユダヤ人の国を建設すればよいと云う考えが浮上した事があった。もしユダヤ人国家が朝鮮半島に居を構えていたら現在のような悲惨な中東の戦火は起きていなかったのであろう。
満州国は日本の傀儡政権で成り立っていたと解釈されがちであるが、実はかなりのハイレベルで「理想郷」に近い国造りをしていた。
満州国の建国により朝鮮半島の人々は多くの恩恵を受けた。
当時の朝鮮の人々の殆どが文盲(文字を読む事が出来ない)であったが、日本の教育システムの導入・徹底で普通の民衆も読み書きが出来るようになった。又道路・鉄道等の交通網も皆無であったのを満州国がそれを整備し、交通網をゼロから作り上げて云った。
このような恩恵は数え上げればキリが無い。
一例を挙げれば当時の朝鮮の上層部の女性の正装は乳房を丸出しにする服装であった。こういう民族性に今はフタがされており、そんな歴史があった事も認めて居ない有様である。

此の満州国にユダヤの民を連れて来られたら、と残念でならない。
敢えて火中の栗を拾う如く、紛争を起こさせる為に中東にイスラエルが建国されてしまった。
イスラエルの建国は、地上から戦火が無くなると困る人々(結社)の所業であるのは明白である。

明治維新時に一歩間違えば日本も白人の支配下に置かれてしまった筈である。
それを回避したのが大政奉還であり、江戸城の無血開城にある。
無血開城を為しえたのは勝海舟西郷南州の会談による。
しかしその会談前に江戸無血開城は山岡鉄舟の尽力により実質上決していた。
鉄舟は単身にて、江戸を目指して進攻していた薩長軍の中核の南洲一人を目指して乗り込んで行った。その懐には海舟の書状があった。
薩長軍の兵は皆、鉄舟の異常なまでの赤心の前に慄き、道を譲ったと云う。鉄舟は名誉も金も要らぬと云う稀有で高潔な人物であった。
南洲もその鉄舟の心性を見抜き感嘆し、海舟の書状に眼を通し、江戸城の無血開城を決意したのである。
神道人たるもの此の鉄舟の心掛けを見習わなければならぬ。

明治政府が成立しても鉄舟は要職に就く事無く、一人の人間として明治大帝の傍に仕えた。
明治大帝は鉄舟が傍に居ないと不安に思う程鉄舟を信頼していた。
鉄舟の赤心は明治大帝の心をも動かしていたのである。
余談であるが海舟は鉄舟と異なり明治政府の要職を歴任している。

薩長軍の大将であった南洲はどうしたことか征韓論を唱え、結果的に西南の役を起こし自刃して果ててしまった。
これは近代史の大きな謎として不明な点が余りにも多過ぎる。
一体南洲は何を考えていていたのだろう。勿論南洲は日本国家の為に尽力する事を行動理念の根本に置いていた。随って此の征韓論も表には現れて居ない何かの眞意があって然るべきである。
南洲も謫仙であったとも云われている。
此処に吾々俗人が窺い知る事の出来ぬ何かが隠されているのであろう。
吾々があれこれ詮索しても南洲の心中を察する事は不可能だと思われる。吾々凡人には窺い知れぬ何かがあったのだろう。

五稜郭の戦いにて戦死した新撰組の副組長・土方歳三は死に様を模索していた。近藤勇は此の五稜郭の戦いの前に甲府にてあっけなく戦死し、首を晒されると云う武士としてはあってはならぬ死に様であった。土方は近藤と同じ轍を踏まぬよう死に様を模索していたのだ。
その結果、うつけ者の榎本にそそのかされ五稜郭にて戦死する事となるのである。榎本武揚の本名を「釜次郎」と云う。その弟は「鍋次郎」と云う。何とふざけた名前だろう。生まれは卑しくも立派に成人する人間も多く居るが、榎本はそうでなく中途半端な人間であった。榎本には国家をどうにかしようとする気概が欠如していた。榎本は凡人で、暗愚であった。

そもそも薩長軍が江戸に向けて進軍していた時に静岡近辺でで榎本が海上から砲撃を加えておれば薩長軍も大敗を喫して退却していた。
時代の読めぬ愚か者が面白い玩具(鉄船)を持って意気揚々と喜んでいただけの事である。 幕臣の信頼が厚く、江戸でも一、二を争う程のの道場であった「伊庭道場」の小天狗こと、伊庭八郎も此の榎本の船に乗り、五稜郭付近にて犬死をしてしまった。八郎は土方を凌ぐ剣の腕の持ち主であったが、箱根の戦いの際に、薩摩軍の不意打ちに遭い左腕を失ってしまった。しかし片腕でも恐らく土方などでは歯が立たぬ程の剣の実力を持っていた。八郎も片腕を無くしてからは自分の死ぬべき場所を模索しており、その地を北に求め榎本の船に乗った。八郎は江戸では知られた剣客であったが、烏合の衆であった榎本軍中では目立たぬ存在として行動していた。本来ならば土方の上に立つ人物であったのだが、八郎はそれを一笑にしていた。恐らく八郎には榎本に見えぬ未来が見えていたのだと思う。
土方は新撰組最後の志士として死に様を模索していた。八郎は時代を読み、自分の行く末を見ていた。此の違いがお分かりであろうか?
榎本だけは本気で勝てると思っていた。勝てぬ戦が分からなかった榎本はやはり暗愚であった。時代を読めぬ馬鹿者は馬鹿者に過ぎなかったと云うより他は無いのであろう。此の場合の馬鹿者は勿論、うつけ者と云う意である。

幕府が薩長軍に対し無条件降伏をした事に対して、一部の江戸の旗本・御家人が幕府軍にも抵抗する者が居ると云う事を天下に示すだけの為に立ち上がった。上野の山に籠もった彰義隊である。江戸っ子の気構えを世に知らしめる事だけを念頭に置いており、自分の命よりも幕府軍にも気概のある者が居たと云う事実を残す為だけに、勝てないと分かっていながら薩長軍に対して戦いを挑んだのである。馬鹿者と云われても仕方無い行為だが、その気構えには共感出来る。
剣しか持たぬ此の馬鹿者達を大砲や鉄砲を用いて僅か数時間にて簡単に打ち破ってしまった大村益次郎を中心とした薩摩軍は、本当に大馬鹿者である。此の場合の馬鹿者の定義はいい意味での馬鹿者とうつけ者としての馬鹿者をそれぞれ示す事は云うまでもない。
南洲ならば彰義隊の死に様を考え、対処していた筈である。それをいとも簡単に近代兵器にて打ち破った大村は本当に大馬鹿者としか云いようが無い。

現在上野駅前に西郷南洲の銅像があるのは此の彰義隊の鎮魂の為なのであろう。彰義隊も南洲に見守って貰えれば怨んで顕界に出る訳にはいかぬのであろう。もし大村益次郎の銅像でもあった日には上野は亡霊が頻繁に出る心霊スポットとして有名になっていたに違いない。

海舟の剣及び心の師匠を島田虎之助硯山と云う。虎之助は元々は九州の剣客であったが、江戸に出て自分の剣を磨こうとしていた。
虎之助の遺した言葉に
 『剣は心なり、心正しからざれば、剣また正しからず。
          剣を学ばんと欲せば、先ず心より学ぶべし。』

なる名文がある。
此の言葉の「剣」を「神道」に置き換えればそのまま吾々神道を学ぶ者の指針となる。此の言葉を肝に銘じて覚えて欲しい。

海舟は虎之助の進言で蘭学等の学問を学び、一介の人物になった。虎之助には剣の素養に比せば学の素養は高く無かったが見識は高く、鉄舟に通じる赤心があった。虎之助の赤心を見事に受け継いだ海舟が江戸無血開城の幕府軍の代表であった事を考えると如何に虎之助が偉大であったかが分る。
その虎之助に剣の何たるか、そして心の在り様を教えたのが他ならぬ男谷精一郎信友である。男谷道場は幕末一の道場であった。

幕末の三剣豪と云うと、「男谷精一郎」「島田虎之助」「大石進」と云われている。大石も元々は江戸の剣客ではなかったが、自分の腕に自信を持って江戸に出、江戸の各道場で道場破りを行っており、敵う所、敵なしと云う有様であった。しかし唯一、男谷には手も足も出ずに軽くあしらわれてしまっている。

現在幕末の剣豪として知られているのは千葉周作や桃井春蔵などの薩長軍寄りの人物のみである。
千葉も一介の剣士であったが、男谷の前では赤子の如き存在であった。それ程剣の実力も持ち合わせておらぬのに現在名前が残っているのはこれらの道場に薩長軍の武士が多く通っていた為である。
幕府軍側であった、男谷道場や伊庭道場などは現在完全に忘れ去られてしまっている。とても悲しい事である。

これは司馬遼太郎などが薩長軍贔屓の小説を書き、それが大衆に広く受け入れられたからに他ならない。お玉ヶ池の千葉道場に出入りして剣の腕を磨いていた坂本竜馬などの腕も見識も推して知るべしである。事実、竜馬は海舟を暗殺しに行ったが、逆に海舟の心の深さに愕き、以降竜馬は海舟の弟子のような立場となっていた。

竜馬は現在、偉人としてその名を知られている。しかし竜馬は南洲に利用されただけの人間である。薩長同盟なども竜馬が居なくとも南洲は手を打っていた。しかしその実行前に竜馬が現れ薩長同盟を持ち出したのでその案に乗っただけの事である。竜馬には日本国家をどうこうしようと云う考えは皆無であった。日本国家の事を主眼に置いて居れば、明治政府の要職に就き、政府を動かすのが筋と云うものである。竜馬は只、自分の想いの趣くがままに行動していたに過ぎない。偶々その想いの一つが「船中五策(だったと思う)」の如き政治色の強いものであったが、それは想いの一つであり、竜馬の中心的な考えは其処には無かった。その行動が破天荒であった為や、生き様や死に様が劇的だった為に竜馬は現代では過大評価されているに過ぎない。

海舟を育てた虎之助。その虎之助を育てた男谷。此の二人は明治維新を待たずに帰幽してしまった。此の二人がもし幕末に生きていれば歴史も変わっていたであろう。
岩倉具視の悪巧みの阻止や榎本の処遇の仕方など変わっていた筈である。此の2点が変わるだけで明治維新は根底から変わってしまう。
明治大帝の先帝は孝明天皇であり、岩倉一派により暗殺されてしまっている。そして幼き明治大帝を帝(みかど)に据え、薩長軍中心の傀儡政府が成り立ってしまった。
只一つの救いがその中核に大西郷が居た事である。

新撰組の近藤や土方などは江戸の田舎剣客であった。男谷や虎之助と比するには剣も心も見識も余りにも小粒過ぎる。
況や清川八郎をやである。
竜馬を斬ったとされる会津藩の剣士・見廻り組に属していた佐々木只三郎も会津藩主・松平容保に忠誠を誓い、心の据わったひとかどの剣士であった。竜馬もこのような男に斬られたのならば本望であったと思われる。

男谷は直心影流である。これは江戸初期の将軍家指南役・柳生宗矩の柳生新陰流とも無縁では無い。しかし柳生新陰流は禅と結び附いて弱くなってしまった。宗矩は沢庵和尚より教えを受けていた。宗矩は柳生新陰流の集大成として「兵法家傳書」を書いた。此の書は武蔵の書いた「五輪書」などは遠く及ばぬ内容の深い書である。
しかし何故か世間では五輪書を有難く祭り上げている。
全く不思議と云うか、本質を知らぬとは恐ろしい事である。

宗矩は佛教(禅)に傾き『剣禅一致』と称していた(因みに島田虎之助は『剣心一致』と称していた)。しかしその倅、柳生十兵衛は神道家であった。このことも十兵衛が江戸から放逐された要因の一つだと考えられる。実は十兵衛も書を書いている。其の集大成を「月之抄」と云う。
この月之抄、とても興味深い内容となっている。
これを読むには既に絶版になってしまった
  「史料 柳生新陰流(上下巻)、昭和42年刊)」
若しくは野島出版から出された、
  「校註・月之抄(昭和46年刊)」
のいずれかを入手する必要がある。しかし今日この両者共に入手が困難である。
私の手元には幸運にも後者の書籍が巡って来たので、読みやすい形で本に出来ればと思っている。

もし「兵法家傳書」を未読の方は一読をお薦めする。岩波文庫から出ているので、すぐに探せると思う。
五輪書などより余程益する処、大なる書である。

動乱期に活きた男達はいつも死と隣り合わせの生活をしていた。
否、何時死んでもいい覚悟が出来ていたと云うべきであろう。
それに対して現代人の一体何人が死ぬ覚悟が出来ているのであろうか。
平和な世の中に生を享けたのも何かしらの意味があると思う。
其の眞の意味を見出した人間は強い人間なのだと思う。

亜細亜の各国を白人から開放したのは日本の力である。
阿片戦争で支那も白人の支配下に置かれた。
支那の支配権を掌中にした西洋列強国の次のタ−ゲットは当然日本に向いていた。
英国はまず薩摩に攻め入った。
恐らく英国は容易く薩摩城を落城させる自信があったのだと思う。
しかし薩摩藩単独にて英国軍を退ける事に成功する。これに恐れを為した英国は日本を攻める事を諦めた。日本が他の亜細亜の国と何かが根本的に異なる事を実感したのであろう。

これらの幕末動乱時と比して現在、薄っぺらな人間が多く、辟易している。分からないことを自分で調べない人が多い。安易に人に聞くから壁をぶち破れないのだ。

剣客の話だが、師匠を持つと上達もたがが知れると云われている。
即ち、師を超える技を身に着ける事が出来なくなり、小さく纏まってしまうのである。これでは師を超える事は不可能である。師に付きその師を超える事が出来るのはほんの一握りの限られた天賦の才に恵まれた人物のみである。
これを神道で言うとどうであろう?
じっくりと自問自答して欲しい。

神道では「我流」では決して眞の神祇に近づけないと云われている。
しっかりとした師に付かないと鎮魂ですら出来ないと云われている。
武蔵は師に付かず「斬り覚える」実践の場で剣の腕を磨いていた。
剣の道は恐ろしく、例え99勝1負でも、1負したら死んで終わりである。
此の恐ろしい道を歩んで行った武蔵は「勝てない」と思う相手と戦う羽目になれば、何もかも棄ててひたすら逃げた。負ければそこで人生終わりであるのだから、此の方法を取るのも当然と云えば当然であるが、下手なプライドがあるとこれが出来ない。
下手なプライドなど棄てる勇気も持つべきなのであろう。

果たして神道で武蔵の如き己で考え出した修験方法で道奥へ進む事が出来るのであろうか?
私は不可能では無いと思っている。
武蔵が多くの人間を実際に斬った事で腕を磨いたように神道でも独自に修験が出来るか否か。
実際に師を見つける事が困難な現代の神道界を見渡すと、武蔵の行動を如何に捉えるのかが重要となって来る。

しかしやはり人間は神祇の手の内で踊らされているのだ。
だったら一時の悦楽に身を任せるのか?
だったら一時の快楽のみを求めるのか?
生きる資格の無い人間など居るのか?

そんな疑念を持つようなら神典(古事記・日本書紀)を拝読すべし。
一心に祝詞を奏上すべきである。

眞理などあるのか?
では何処に?
自分の心の中か?
いや、違うだろう。
高天原にあるのか?
ではその高天原は何処にあり、どうやったら行けるのか?
それが分れば苦労などせぬものなのだろう。
それを求めて苦行に身を投じる修験者が後を絶たないのであろう。
しかしそれを得られる人間が果たして今まで何人居たのであろう?

私は神祇を感じる為に御幣を作り、祝詞を奏上する毎日である。
私は一尺の神鏡に自分の姿を映しずっと見つめている。
(此の法も神道の一つの秘法として伝わっている)

迷ったら大祓詞を無心に唱えよ。
否、まずは大祓詞を徹底的に暗記せよ。
暗記して1時間、2時間、4時間と、唱える事のみに集中して連続奏上せよ。
日蓮・空海・最澄・親鸞などみな所詮人間の哀れな姿の具現である。
生きる事への本質を見失うとこのような妖魔に冒される。
眞澄の心性を持ち、無垢で清明な赤心を保ち続ければ自ずと道は開ける。
しかし現在社会に於いてそのような心の持ち主は決して生きて行けぬ事を私は身を以って実感した。
時には狡猾な事もする必要があろう。自分に嘘をつく事もあろう。
処世術を身に着けて居ないと現代社会を生きていけない。
しかしやはり処世術に頼って生きていたのでは何時まで経っても一人前の人間には為れない事は肝に銘じて欲しい。

顕幽の高き垣根をベルリンの壁の崩壊した如く壊してしまいたい。
さすればその人間の本性が如実に露見する。
高き垣根を壊せば妖魔が跋扈する世の中になるが、その世界で精神崩壊せず活きていける人間こそ、本来の人間の在り様を熟知している人間なのであろう。
私も斯くなるべく日々行を積む毎日である。

皆様のご意見を賜りたい。
2013年1月31日 一部改稿
2008年4月27日    謹記


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